2015年2月 4日 (水)

「 I AM KENJI 」

これから、ずっとずっと
たぶん、死ぬまで
このひとの命日を忘れることはないだろう

これから、ずっとずっと
誕生日がくるたびに
想い出すだろう

「I AM KENJI」のメッセージを掲げ
世界中の多くの人々が生還を祈った
ひとりの日本人ジャーナリストがいたことを

わたしの60回目の誕生日の朝
遠いシリアの地で
無残に殺された
47歳の若い父親がいたことを

後藤健二という
その名前を

そして、その
あたたかいまなざしと笑顔を
 
     ・・・・・・・・・・・・ 2015年2月1日
    わたしの60回目の生まれ日の夜に

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2010年6月13日 (日)

官僚叩きの愚

持病の喘息の定期的な診療を受けに行った病院の待合室で、ふと手にした週刊新潮にあった藤原正彦氏のコラム欄「管見妄語(かんげんもうご)」のタイトル。

「官僚叩きの愚」

まさしくわたしが感じていたことそのものがここに書かれていて、一息に読んだ。

以下、抜粋。
(といっても、走り書きに書き写してきたので、正確さは保証しません。表現が違っていたり文字の配列が違うこともお許しください。)

・・・・・前文省略。

官僚でなく民意で選ばれた政治家が主導権を握るというのは民主主義の原則とも言え一件当然のようだが、大きな落とし穴がある。政治家よりも官僚のほうがしばしば、政策に関する専門知識、経験、そして見識においてさえ上なのである。官僚は試験につぐ試験をくぐりぬけた、日本中のあらゆる階層から選び抜かれた最優秀の人々と言ってもいい。

一方、最近の政治家の中には、小泉チルドレンや小沢チルドレンに見られるように、議員になるまで国政とは何の関係もない職業に携わっていたズブの素人が多い。(中略)それに世襲議員。日本は世襲議員比率のもっとも多い国のひとつである。もちろん、世襲議員の中にもきわめて優秀な頭脳と情熱をお持ちの人もいる。しかし問題は優秀な頭脳と情熱を持った若者が、コネもカネも地盤もないがゆえに政治家を志せないということである。したがって政治家の力量はいつまでたっても向上しない。
加えて、政治家は次の選挙を視野に入れ、ポピュリズムに走りやすい。長期的視野にたった国の命運を担うという大仕事を任せるには不安だ。

政治家は官叩きに走るより、官僚の無法な天下りや優秀な者にありがちな狡猾傲慢を厳しく警戒しつつ、ポピュリズムとは無縁の官僚を知恵袋としてともに手を携え国に奉仕してほしい。
優秀な人材はどこの国においても数が限られており貴重だ。叩き潰す余裕などないのだ。

・・・・・・・・以上、週刊新潮4月28日号から無断引用いたしました。

心ある政治家のどのくらいの人がこの記事を目にしただろう。
このことに、自ら気づいた政治家が果たして何人いただろう。
時すでに遅しの感が否めない気もするが、政治家よ、これ以上優秀な官僚たちを霞ヶ関から去らせることがないようにしていただきたい。これもおおかたの国民がなんとなく感じ続けているであろう、つまり、あなたたちが日ごろ紋所としてふりかざす、あなたたちが大好きな、民意でもあるのだ。

※藤原正彦氏とは、こんな方でした。
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%AD%A3%E5%BD%A6

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2010年6月11日 (金)

脱官僚というマニフェスト

官僚はプロである。
プロとはその道で食ってるひとたち。
それが仕事なわけ。
事務屋は事務屋。どんなにキレ者の政治家であっても、事務的分野に関しては、彼らにかなうわけがないのよ。だって、それが彼らの仕事なんだもの。それで、お給金もらってんだもの。(官僚を事務屋扱いするのも、失敬きわまりない話だけど)

そのプロたる人々の集めた膨大な資料と、お金をかけて身につけたであろう知識、見解をいかに活用するか。
そこが大臣の腕のみせどころっちゅうやつ。

脱官僚とは、官僚の意見を聞かないことではない。
プロの差し出した資料や素案を有効に活用することは、決して官僚のいいなりになることでもない。ということにようやく気づいた政治家がいるらしい。
と、きょうの朝刊を読んで思った。

ま、代償はかなり高くついたけど、民主党が大々的に打ち出した「脱官僚」というマニフェストもムダではなかったってことね。

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