2016年2月28日 (日)

荒立神社にて

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高千穂まで足を伸ばしました。
ここもやはりパワースポットとして若者の人気スポットらしいです。

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立札によれば、御祭神は猿田彦命(サルタヒコノミコト)と天鈿女命(アメノウズメノミコト)で、芸能と縁結びに御利益があるとされる神社とありました。

高千穂は天孫降臨の地。
天孫一行を道案内をされた猿田彦命と天鈿女命が結婚され住まわれた地と伝えられ、切り出したばかりの荒木を利用して急いで宮居を造ったため「荒立宮」と名づけられたという謂れがあるそうです。

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縁結びなどにはまったく興味のない(いや、縁があっても困るけど)わたしのここでの一番の興味はこれ↑です。春樹の銘がある句碑。

 高千穂の大根を引きに猿田彦 春樹

春樹ってだれ?と思いながら眺めていたら、角川春樹氏の句でした。
姉である辺見じゅん氏がこの地との交流があられたご縁での句碑建立となったらしいです。詳しいいきさつが書かれていたのですが、写真に納めるのを忘れたので、委細不明なり。
こちらのパワースポットも杉木立があって気持ちいい空間でした。

人生二度目の高千穂入り。
滞在時間は一時間足らずのあわただしさ。
それでもきっちり、家人への土産に「天孫降臨』と言う名前のイモ焼酎を、それも一升瓶で持ち帰ったのでありました。

妙齢のおばちゃん三人を乗せて、
ナビゲーターとドライバーを務めてくださったゆーこちゃん、
本当にお疲れ様でした。
おかげでいろいろな初体験ができました。
また機会があったらぜひお声かけくださいね。
ほんとにありがとう!!

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草部(くさかべ)吉見神社にて

幣縦神宮を後にして、高千穂へ向かう途中に案内してもらったのは、「裏幣立」という呼ばれる神社でした。社殿が鳥居より低いところにある神社のことを「下り宮」と呼ぶそうです。下り宮と呼ばれる神社は日本に三か所で、そのひとつがここ、「草部吉見神社」なのだとか。
阿蘇郡高森町にあります。

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確かに鳥居よりずっと下にお社があります。
草部と書いてくさかべ。語源は草の壁→草壁→草部と案内にありました。
御祭神は神武天皇の長男、彦八井耳命(ヒコヤイミミノミコト)で、国龍神とも、草部吉見神とも呼びます。
彦八井耳命が高千穂からこの地にいたり、宮居をさだめようとしたが、この池に人々を困らせる大蛇が棲んでいたため、命は大蛇を退治して池を埋め一夜で屋根も壁も草で葺いて宮殿を建てられました。館が草の壁だったので、いつしかこの地が草部と呼ばれるようになった。(とこれは、帰宅後、インターネットで引いたもの)

ここの境内地にも神秘的な雰囲気が漂う湧水地がありました。

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鳥居には「塩井社」の文字が。

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湧水が流れ込んでできた池の傍らには大蛇が祀られていて、お供え物が並んでいます。
命に退治された大蛇なのでしょうね。

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透き通った水。
この真ん中付近↑から湧き上がる水が、竹筒を通って、

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この池に流れるようになっていました。
大蛇が守る池の主は、この二匹の鯉。

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ここは陽が差さなくてすこしさみしいけれど二匹ゐるからさみしくないね。
(と字余り短歌風に。)

この池をくるりと通って戻った先には千年杉。

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御神木の大きさを、かたわらに立つ女性の姿で再認識いたしました。

ここから、さあ、高千穂へ向かいます。

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日の宮 幣立神宮にて

このところパワースポットが若者に人気らしい。
パワースポットのひとつとして名高い(らしい)高天原(たかまがはら)日の宮・幣立神宮に行く機会を得ました。
熊本県上益城郡山都町にあります。
運転手を務めてくれたのは、先のボランティア入門講座に参加してくれた三十代独身女性のゆーこちゃんです。

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パワースポットというのが実はどんな場所を言うのか、きちんとした定義があるのかどうかもなにも知りませんが、とりあえず行ってみて実感したことは、とても気持ちがいいところであるということでしょうか。

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杉林の大きさにも、その間を抜けてくる冬の陽ざしの美しさにも圧倒されました。
しずかで、ここちいい空間です。
訪れるひとをおだやかな気持ちにしてくれるところ。
パワースポットとはいうなれば、そんな場所をさすのでしょうか。

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無信心で霊感にもまったく縁がなく、正直に言えばあまり興味もありませんが、少なくともここはそんな輩をも厳かな気持ちにさせてくれるところでありました。

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湧水があります。神の水として汲んでいかれるかたが多いのだとか。
水をペットボトルにいただいた青年がここをあとにするとき、しずかに頭を下げて帰る姿が印象的でした。

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ここでわたしがいちばんこころをうばわれたのは、このみどりの池です。
湧水の祀られた一角の後方に小さな水田(たぶん、新嘗祭などに用いるための稲作がおこなわれているのであろうと推測)があり、その水田に添うような形でこの池がありました。水藻に覆われて深緑のような鮮やかなみどりの池。

万の生物を潜め息づく池。
それこそ、たましひのいけと呼ぶべし。

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2009年1月16日 (金)

天津池さん

わが家の近くにあるため池。ただのため池なのに、地域びとは「天津池(あまつけ)さん」と「さんづけ」でお呼びになる。まかふしぎなことじゃ。

そう言えばと、忘れかけていたふるい記憶が蘇る。

息子が中学生になったばかりのころ。当時、行政区長をしていたおじが血相を変えてやってきた。
「天津池さんにボートを浮かべて遊んでいる子供がいるとの苦情を受けて見に行ったら、どうもお前んちのシュンスケのごたる。岸からやかましゅう怒鳴ってきたが、お前たちからもやかましゅう言うてくれ。あそこは神さんのおらっしゃるところ。バチんあたっぞ」

そのころ魚釣りを始めたばかりの息子。この池はブラックバスがうようよしているとかで、岸から釣れないので、友だち数人で、友達の父親が所有するゴムボートを浮かべ、まんなかから釣ることにするのだと言っていた。

やかましゅう言うもなにも、この母は、ゴムボートから釣ることを事前に報告されていたのだ。溺れないようにしなさいよとだけ注意を促して傍観していたのは、なんにも知らないこの母親であった。「神さんがいる溜め池」なんて聞いたことがないし。

さて。町史にもどる。広川地名考から。

「天津池(あまついけ)」
つり鐘が沈んでいるとの伝説がある天津池の周辺地名。池そのものに天津神(あまつかみ)を祭祀することにちなみます。

水神信仰の項にも、
・・・智徳には天津池(海士漬池)があって、天津神社が祭祀されています。この池には天正時代のころに、銅鐘が池底に沈んだという二説の伝説が伝わっています。(中略)
天津池の本殿は池底にあると伝えられ、以前は池の中央に竹を立てて注連縄が張られていました。
との記載があった。

天津神ってのは、「記紀神話に基づき天降った神と伊弉諾・伊弉再尊の子孫神」をいうのだそうな。この池での雨乞いの様子も紹介されていて、どうやら水の神様がおらっしゃるらしい。

この池の由来を地域びとのみんながみんなご存知のわけではないのだろうが、やはりいにしえから信仰の対象として大切にあがめられてきたのに違いない。ここにも、信仰心の継承が伺える。

そんな信仰の対象物である「由緒正しきため池」での、それも、神さんの頭上からの「ボートからの魚釣り」を許可してしまった経験を持つ母は、あらためておのれの無信心ぶりを恥じ入るばかりである。

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2009年1月12日 (月)

高良坂本神社

以下、「広川町史 資料編」から引用します。

古賀 高良坂本神社

『寛文十年 久留米藩社方開基』では、
  古賀村鎮守、高良坂本宮
  唯今有之候社、享禄四年に稲員十郎右衛門再興仕候。

『寺社古城古墳等書付』では、
  坂本宮  氏神
        住吉大明神
  神体   高良大明神
        春日大明神
 (中  略)
 右開元建立之儀、当社古来より之棟木銘等吟味仕候処、正応三寅年御井郡稲員村稲員右京太夫、当村へ移住居。同五壬辰年、新に社一宇建立仕候由。享禄四年稲員十郎右衛門再興任候。唯今之社、貞享二丑年氏子中再興任候。宝物寄付等之品、申伝無御座候。

『稿本八女郡史』では、
 (中  略)
 同村稲員氏は、高良大明神の裔なりと云ふ。故に稲員村稲員右京太夫良参御井郡稲員村より当地へ移住後、正応五壬辰年新に社を建て坂本命を祀る、初め坂本宮と号す。
 (後  略)

 天和元年(1681)神殿造替と貞享二年(1685)拝殿造替は、稲員安則の陣頭指揮で行われたものです。村人と語らい、一汁一菜無酒で一軒宛て一分出銭の氏神講を奨励実践して財を貯え、豊後国で用材を求め、筑後川を流して神代村で陸上げして運んだ等々が、「家勤記得集」に詳しく記されております。現在の神殿はこの時の物で、いまなお棟木には墨痕も鮮やかに、安則の記した銘が残っています。
 また、神殿に掲げられる「坂本宮」と題する傍額は、高良社中興の座主として高名な、寂源僧正の筆になる物で貴重な墨跡と言うべきです。(中  略)

 いま一つ興味あることは、現在の社地を含む古賀村一帯は、古代の上妻郡(かみつやめのこうり)の郡衙(ぐんが)推定地となっていることです。平安時代の天慶七年(944)の「筑後国内神名帳」に、正六位上の神階を持つ「郡守神」なる神名が記されています。「家勤記得集」にも、正応五年(1292)に稲員良参が新社を建て坂本命を祀る以前すでに、高良大明神が祀られていたとあります。正恵(しょうえ)・大坪遺跡の発掘調査の成果からも、郡衙が古賀村に所在した可能性は限りなく高く、郡守神もまたこの地に鎮座したと考えるに無理はなく、あるいは郡守神すなわち高良大明神ではなかったかとも考えることができるのです。

以上で、引用を終わります。

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ここからは、管理人記述です。
「郡衙(ぐんが)」とは、律令[りつりょう]時代の「郡」をおさめるための役所。今で言う市役所と同じくらいの役割だろうと思われます。郡家[ぐうけ]とも言うそうです。

この高良坂本神社がある地域の行政区名を「古賀区」といいますが、これは、郡衙が転じたものという一説もあるのだとか。ただし、これは聞きかじりに過ぎません。
どちらにしても、稲員姓の多い地区(特にこのお宮さんの近くに稲員姓が多い)であることは事実で、はるかはるかむかし、高良大明神の末裔と呼ばれた方の一族のかたがたなのであろうと理解しました。

かささぎどんからの宿題をひとつ果たしました。

歴史にはとんと疎い管理人ですが、「広川町史」に助けてもらいました。「町史」はどうしてどうして、なかなか侮れません。それなりに読み応えがありますし、読み始めたらそれなりに、けっこう面白い。
購入ご希望の方は、広川町企画財政課でお買い求めいただけます。在庫あり。
ぜひ、どうぞ。ただし、けっこうなお値段です。が、この内容(上・下巻、資料編・年表編の計4巻で一万円)はお買い得でしょう、たぶん。

http://www.town.hirokawa.fukuoka.jp/oshirase/tyoushi/tyoushi_2.htm

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